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Ukiuki Street,#414

小沢健二中心に、好きなものを色々絡めつつ。

天使たちのシーン

Twitterでは呟ききれない思いを、今日からここに書きとめます。誰が読むとも知れない小沢ブログ。

記念すべき最初の投稿は。


小沢健二の『天使たちのシーン』、その美しさに帰結する話。


私には昔から恐いことがある。

人類と地球が滅びる時、私の知る全ての概念が消え去り、人々が長い時間がむしゃらに創り上げてきた何もかもを忘れてしまうという恐怖だ。好きな音楽だとか本だとか、もちろんテレビなんてものも。国や政治や宗教も。全部。全部が無になる恐怖。
今生きている人々は当然のように、「自分が死ぬより先に地球が滅びるなんて絶対ないでしょー」と思いながら暮らしているけれど。そんなことより明日ミサイルが飛んでくることの方が恐怖だったりしているけれど。
来週には太陽がプッツリとその熱を絶やしてしまうかもしれないし、地球一面が海になってしまうかもしれない。どんな専門家も原因を知り得ないような、想定外のことは歴史上必ず起こるのだから。
そんなことを考えるにつけ、“地球の死”への絶望感は拭えない。だから人は神に祈ることで平常心を保ったり、終わりを見ないように能天気に過ごしたりするのだと思う。
そんな中で音楽というのは、無意識の祈りであり、“今この瞬間の熱狂”を共有する歓びであり、絶望感と表裏一体の、娯楽の形をした救いだと言える。神様が人間に与えてくれた、哀しみとうまく折り合いをつけるためのアイテムなのだ。

Michael JacksonのHeal the WorldやWill You Be Thereという曲を初めて聴いた時、ゆりかごのように優しい歌声とメロディにあらゆる感情が溢れ出した。泣けてくるような、包まれるような、そして何故かドキドキというよりオロオロしたのを覚えている。今思えば、圧倒的な荘厳さに「畏怖の念」みたいなものを抱いたのだと思う 。神様を目の当たりにした気がした。
もちろんそれは名もない、あえて呼ぶなら音楽に宿る神様のようなもので。私が常に抱いてきた“地球の死”への絶望感を容易く吹き飛ばしてみせた。彼が「I love you.」と言うとそれは瞬く間に脳みそではないどこかに刻まれて、いつかこの身体が宇宙の塵になってもなお再生できそうだと感じられた。


それで、ようやく小沢健二の話になる。小沢健二の場合はMichaelとは違って絶望感を容易く吹き飛ばしたりはしない。

むしろ、全ての曲で今を生きる喜びだったり、君と僕が繋がっていることの奇跡のようなものを歌ってくるので、そんな美しい世界を見せつけられては、到底手放したくないと思ってしまう。現世への名残惜しさは増す一方だ。けれど、それが何故救いになるのか。
小沢健二の歌の中で春、夏、秋、冬をぐるぐると巡っているうちに気がついた。彼こそが、世界の美しさに参っている張本人だと。春に君を想うことも、夏の彼女とのロマンスも、秋のブルックリンも、冬降りしきる雪も、彼はなんにも手放したくないのだと。
なんて怖がりで強がりな人なんだろう。私と良い勝負だ。
人生に訪れる春夏秋冬のバイオリズム、その全てをビデオテープに録画しようとするような、気の遠くなる作業に真っ向勝負で立ち向かう幼気な姿があまりにも純粋で。一緒に思い出、守らせてください。と、手を差し伸べずにいられない。それが小沢健二の紡ぎ出す救いの正体だ。

いつか全てが終わってしまう、地球なりこの体なりの「最期の日」ってのはあるらしい。
だけど今日もどうにか日は昇り、沈み、月が出て、明けの空に消え、また日が昇る中で、君と僕は同じ歌を歌ってるんだよね?と、問いかけるような真っ直ぐな詩。臆病なのを悟られまいと、少々ひねくれたことも言うけれど。同じ時間と空間を共にしたことをどうか忘れないで、とそう願うように。彼は泣きながら歌い、「今日は来てくれて本当にありがとう。」と本心から言う。
当たり前の毎日のふとした風景が、ひとつひとつ、いちいち有り難い奇跡であることを知っているから。
いつか宇宙の塵になったときにも再生し得る、脳みそではないどこかに刻む思い出を、できる限り多く持って星屑の中に果てたいとそう思っているのだろう。
単調な毎日を写す単調なリズム。間違い探しのような昨日と今日から、当たり前で奇跡的で魔法のような瞬間を切り取り、こっそりと祈る。

歌い続ける。


だから天使たちのシーンは美しい。