Ukiuki Street,#414

小沢健二中心に、好きなものを色々絡めつつ。

なにを書いたかはナイショなのさ

フジロックの感想をどうまとめるべきか悩んでいた。
また来年以降にフジに行く可能性もあるから、あの日の全行動を自分のために記録するのもいいと思ったし、まるで通りぬけフープのように読んだ人をホワイトないしピラミッドに瞬間移動させられる、具体的かつ情感たっぷりのレポートが書けたら一番いいなとも思った。
けれども、どうにもまとまらない。
小沢健二本人ですら未だまとめきれていないであろうこの感情を、一体私なんかがどう収拾をつけるのか、と。

それでも絶対に書きたいことはあった。
あの日感じた小沢健二のしなやかさ。のびやかさ。不安のなさ。
かつてあんなに生きづらそうにしていた青年が何をどう経てこんなにも心解き放つ術を知ったのか。
それだけはじっくり書き残したいと思った。

そう思ったとき私はある言葉を思い出した。映画「アメリ」に出てくるこんな台詞。
「アメリは突然 世界と調和がとれたと感じた すべてが完璧 柔らかな日の光 空気の香り 街のざわめき 人生は何とシンプルでやさしいことだろう」

あー、この感じ。窮屈な暮らしに突如訪れた解放感。環境はそれまでと変わらないのに、自分自身の変化によって世界を味方につけてしまうこの感じ。小沢健二も紛れもなくそれだった。
では、何が彼をそうさせたのか。考えるまでもないがそれはもう確実に「家族」であり、それを得るまでの「旅」である。とりわけ子供の存在。長男であるりーりーの存在は大きい。
「それはちょっと」であんなにも家庭というものを遠ざけていたのに、何かの拍子にガバッと飲み込まれてみたら、案外くじらの胃袋の中は大きくて、小舟を浮かべて釣りでもできちゃうなーなんて具合、と言ったらそれはジェペットじいさんの話だけれど。とにかく居心地は悪くなかったのだ。悪くないどころか、見たことのない景色にワクワクしたかもしれない。
いつまでも自分が子どもでいたい、親になんかとてもじゃないけど……。そう思っていたのは単なる思い過ごしだったのだ。子供には大人に見えない景色が見える。つまり、それを共有することで自分も子どもでいられるのだ。子どもの感覚を一番そばで感じられることは意識的に子どもでいつづけるためにとても効果的だ。

そして今となっては小沢健二は家族の話をするのが大好きだ。今回のピラミッドガーデンでも奥さんの口調を真似してみたり、りーりーのおしゃべりを真似してみたり、家族愛が溢れているというかもうお惚気状態だった。
愛し愛されて生きるとき人は不安から解放される。誰にカッコつける必要もなく、仕草や表情も穏やかでのびやかになる。それが今回一番感じたこと。世界と調和がとれた小沢健二は嘘みたいに格好良く、逞しかった。

さて。それでなぜこのフジロックの感想文にぼくらが旅に出る理由の一節からタイトルをつけたのかというと。
ホワイトステージでこの曲を聴いたとき。ジワリと涙が溢れた気がした。実際は雨だか涙だかよく分からなかったけれど。

【そして君は摩天楼で僕にあてハガキを書いた
「こんなに遠く離れていると 愛はまた深まっていくの」と
それで僕は腕をふるって 君にあて返事を書いた
とても素敵な長い手紙さ[なにを書いたかはナイショなのさ]】

私達がしばし小沢健二を失っていた期間。まさしく「遠く離れて余計に愛が深まった」という経験をした。そして彼は私達にとても素敵な長い返事を書いてくれたという。長らくその中身はナイショだったわけで、私たちはもはや返事を待つどころか手紙を出したことすらも忘れかけていた。
が、そこへきて今年のアウトプット。彼の紡ぐ音、映像、言葉を目の当たりにして、今まで彼が蓄えてきたものや学んできたものや失ったものや得たものを知った。
それはそれは長い手紙を読むように、小沢健二の空白の時間を知った。

ホワイトステージを華やかな光が包んだブギーバックの直後、ついにナイショの手紙の封切り宣言を受け、誰もが雨とも涙ともつかない水滴に濡れていた。電子回路の光が幾万の水滴の中で屈折を繰り返し、美しく揺らめく光景。
これって現実だよね?と思わず誰かに確認したくなるほどの夢心地。
ああ、これが並行世界に消えなくて本当によかった、と心から思った。あの夜を忘れない。

しかしまだ私たちが読んでいるのはすごーく序盤の、便箋で言うところの2枚目の始めぐらいなのではないかと思う。
秋にはフクロウの声がきこえ、ハロウィーンがやってくる。これからも[とても素敵な長い手紙]は続くのだ。
まだ物語は始まったばかり。

ありがとうフジロック。マジで。