Ukiuki Street,#414

小沢健二中心に、好きなものを色々絡めつつ。

小沢健二の歌詞の世界

小沢健二の歌詞は現実とリンクしているか。
これは長年ファンの間でも意見が分かれているテーマで非常に面白い。
「昔本人が実際の経験とは関係ないって言ってた」とか「あの時のあの場面を歌ったみたいに話してた」などなど、この件については本人やファンから色んな証言があって未だよく分かっていない。個人的には、どちらも正解だと思っている。というのが今日のお話。

作詞のスタイルというのは本当に十人十色で、自分の身に起きたことをそっくりそのまま曲にする人もいるし、完全に空想のみでストーリーを組み立てる人もいる。または実話を元にしたフィクション、とか。詞先行/メロ先行によっても変わってくるだろう。作詞で使いたい言葉があったとしても、メロディが先にある場合字数が合わなければ他の言い回しを考えなくてはならない、といった具合に。

小沢健二はよく『言葉の人』だと言われるので、詞先行の曲作りをしていそうな感じがするがたぶんそうではなくて、言葉の重要性を知っているがゆえに気楽に作れないというか、メロディにハマれば薄っぺらい言葉でもオッケー、とはならないだろうから何度も何度も、書いては消し書いては消しを繰り返しているのだろうと思う。
「曲なんかは放っといてもいくらでも出来るんですけど。」と何かで本人も言っていたが。同じ“良いモノ”でも、ゼロカロリーで出来るものと、物凄くカロリーを消費して出来上がるものがある。たとえば画家が、本気の油絵を一年かけて完成させて個展をひらいたとしたら。もちろん「うわー、すごい!素晴らしい絵ですね!」と言われるのだけど、画家になれるセンスを持って生まれたような人は喫茶店の紙ナプキンなんかになんとなーく描いた落書きでも上手いのだ。それを100ドルで買う人が現れるかもしれない。
だから、必ずしも気合を入れて生み出したものが人の心を打つのかと言われればそうでもなくて、小沢健二のメロディメイカーとしてのセンスもゼロカロリーの部類である。
そして本当なら、物書きとしてのセンスも。たとえばエッセイとか、それこそドゥワッチャのような、ある程度好き勝手書いていいものだったらセンス垂れ流しでも問題ないのだけれど、歌詞というのは特殊だ。小説家が必ずしも作詞家にはなれないように、言葉を“紡ぐ”ことは少なからず労力を伴うのだ。

小沢ファンなら見たことがある人も多いであろう、彼が心臓部と言っていた分厚いノートの使い方を見ても明らかなように、彼はパズルのように歌詞を組み立てる人だと思う。“小沢広辞苑”のようなあのノートには、日々暮らしている中で目についた素敵な光景だったり、響きの面白い言葉、歌って口が気持ちいい言葉、おそらく意味はないけど洒落た言い回し、などが取り留めもなく書き連ねられていて、その中でピンときた言葉であったりフッと脳みそに飛び込んできたフレーズを軸に、それを使えるようにうまく前後左右を埋めていく。私の想像の域を出ないがそんな作詞方法ではないかと思う。だとすると実に骨の折れる作業だ。ジグソーパズルを完成させるには当然角とか、縁から作るのが定石なのだから、急にポロッと手元に転がってきた角でも縁でもない部分に合わせて絵をあぶり出すことは非効率的であるに決まっている。
しかし、どうだろうか。非効率的な作業だからといってパフォーマンスが落ちるとは限らない。
小沢健二の思うところ私達は「冷静に見れば少々効率の悪い熱機関である僕ら」なのだから。(『犬』のセルフライナーノーツより)
効率の悪い熱機関が、これまた効率の悪い方法で言葉を紡ぐのは必然である気がして来る。

たった一言の、求心力にあまりある小沢健二の言葉はやがて渦巻き銀河のごとく彼の中に散らかったあれやこれをも吸い寄せ「記憶」も「理想」も「虚構」も「現実」もひとまとめのストーリーに仕立ててしまうのだ。

小沢健二の歌詞は現実とリンクしているか。
その問いにハッキリした答えなど私はもはや求めない。
支離滅裂な夢を見ているような彼の詞の世界はリアリティを多分に含み、そして全ての嘘が誠実なのだ。
その味わい深さはそれ以上でも以下でもない。
唯一無二、誰にも似てない小沢健二だけの持ち味がそこにある。