Ukiuki Street,#414

小沢健二中心に、好きなものを色々絡めつつ。

カウボーイ疾走

前回の続き、としても良さそうです。今回の内容は。
といっても前回の記事を読んでくださった方はごく少数だと思うのでここでもう一度私のフリッパーズギターに対するスタンスを説明しておきます。
この前置きがない事にはその先の話も、タイトルのカウボーイ疾走への繋がりも意味が分からないので。

まず大前提として、私は小沢健二のファンです。そしてフリッパーズギターの作品も好きです。が、フリッパーズギターの再結成は望んでいません。当時の作品としての魅力は感じますが、二人の仲が良いかどうかについてはあまり興味がないというのが現状です。今後考えが変わっていく可能性は自分でも分からないので、とりあえず、「無くもない」とだけ言っておきます。
ほとんどの小沢ファンは小山田ファンでもある、という中で私みたいなのは少ない方なのかもしれませんが(タイムラインがコーネリアスの話題で埋まると途端にアウェイ 笑)別にアンチフリッパーズとかアンチ小山田とかそういうわけではないので、そこだけは伝わって欲しいところです。誰が嫌いとかではなく小沢健二が好きだというただそれだけの話です。
では、本題に。


小沢ファン界隈ではよく耳にする話で、「恋しくて」は小山田圭吾のことを歌ってるんじゃないか。という説がある。つまりそれは、『不仲とか言われてるけど、今でもあの二人が恋しく思い合っていたらいいなぁ。』というファンの願望あっての説なわけで。そういった愛情から生まれてくる説というのは私も割と好きだったりするのだけど。
“二人の仲”に対して興味の薄い私にはやっぱりどう首をひねってみても「恋しくて」と小山田圭吾が繋がることはなくて、まるで一人だけマジカルアイが見えずにモヤモヤしているあの感じである。寄り目で絵を近づけては離し「えー?どこに浮かんでくるって?」とかやってるあの感じ。
見えないのはマジカルアイと同じで先入観があるからだろう。
私の思う小沢健二は、まずもってシャイで、なかなか素直にならなくて、やっと素直になっても非常に婉曲的な表現でしか言葉にしない人だと思っているので、例えば誰かへの隠れた想いを歌ったりしても、その相手、つまり本人が見て自分のことを歌っていると分かるような書き方はしないと思うのだ。
きっと本人が見聞きしても分からないような、全く別のことを歌っているように見せかけて実は、、とかそんな遠回しなやり方を面白がりそうなのが小沢健二ではないかと。

そんな中で私が唯一感じた小山田圭吾が練り込まれていそうな曲が、今日のタイトルの「カウボーイ疾走」である。
それこそ「恋しくて」に小山田圭吾を見ている人々にとっては「えー?どこが?」って感じかもしれないが。
この曲のプロトのサタデーナイトフィーバーの歌詞を見ればカウボーイ疾走よりは分かりやすいかもしれない。
その中には「終わらないパーティーの嘲り」という表現が出てくるが、これではけっこうコテコテにフリッパーズを意識している感が出てしまうので苦味が強い。そこでオブラートで何重にも覆いまくって出してきたのがカウボーイ疾走ではないかと思ったのだ。
まず私が最初に引っかかったのがこの歌詞。

『カウボーイはスペードのエースとか言って
草笛がひどく上手い奴だった』

私は初めてこの曲を聴いた時、というか聴く前のタイトルを見た段階でカウボーイ=小沢健二で、これから疾走していく様子を歌っているのかと思っていたが、よくよく聴いてみれば「草笛がひどく上手い奴だった」と誰か別の人間がカウボーイなのである。自分を俯瞰して書いている場合も考えてみたが、最強のカードを表す「スペードのエース」だとか「上手い」という言葉を自分自身に使うのはなんとなく違和感があるのでやはり他の誰かのことのように思える。
「あいつは上手かった」その言葉通り、才能を認めていた相手となると自然と小山田圭吾が浮かんできたのである。
それを踏まえると、このフレーズの意味が見えてくる。

『海から撫でる風に しらけっちまった純情を帰し
本当のことへと動きつづけては 戸惑うだけの人たちを笑う』

前回の記事で「クールな自分を演じていることに興醒めしてしまったのではないか」というようなことを書いたのだが、まさしく「しらけっちまった」のである。キラキラ目を輝かせながらクールな世界に憧れていた小沢健二の純情はもう、今や海風に乗せられ遠い彼方へ飛ばされたのである。そして本当のことへと動きつづけているのは間違いなく彼自身なのだから、それを笑っているのは別の誰かである。たとえば疾走するカウボーイとか。

当時の小沢健二はきっと、体の中にグツグツと煮えたぎる情熱を解き放つ場所へと向けて荒野をひた走っていた。あえて最短距離をまっすぐに突き進んでいた。
誰かがすぐそばを猛スピードで走り抜け、そいつが巻き上げた砂で足元がざらついても関係なかった。
犬は吠えるがキャラバンは進むのだから、本当にもう関係なかったのである。

この曲は深く聴き込むほどに温かみを増す。サタデーナイトフィーバーに関してはかなり露骨で痛々しさが強かったが、カウボーイ疾走は同じような内容でもどことなく温かい。その変化の理由を、小沢健二という人間の愛情の深さを、是非この曲や犬に収録された他の曲からも感じ取ってほしい。出来るだけ多くの人に。

なんだか締めくくり方がよく分からなくなってきたが最後に言いたいのは、いかにもフィクションっぽい世界観の中にさらりと本音を交えてくる小沢健二の作詞テクニックに、これからもみんなで振り回されるのは悪くない。色んな説を語り合って楽しめるのは素晴らしいことです。たぶん。