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Ukiuki Street,#414

小沢健二中心に、好きなものを色々絡めつつ。

流動体について

Love musicを観たあとの、この熱い気持ちが冷めぬうちに。と思って書き始めたけれど、いつの間にか3日も経ってしまった。

まぁとにかく、今感じたままの『流動体について』です。


この曲は非常に耳触りのいいポップチューンであるにもかかわらず、ほとんど物議しか醸していない一曲でもある。歌詞カードをひらくなり、もしくは新聞をひらくなり、もうあからさまに目に飛び込んできたあの一節。それはまるで必殺技を叫ぶように会心の一撃を放って私達のみぞおち辺りにバコーーーン‼︎とヒットした。


「もしも 間違いに気がつくことがなかったのなら?」


そりゃあBoseさんでさえ驚いたのは納得で。

間違いって言った?今。と全員が思ったであろうことは確実で。その一言は会心の一撃らしく、お喋りな私達をしばし黙らせそして考えさせた。みなさんも考えたと思います。通勤しながら。湯船に浸かりながら。ひふみよのページをめくりながら。「間違い」ってなんなのか、と。


一見して、フツーに浅ーく考えれば「王子様時代は間違いだった説」が考えられる。でもその解答では全くと言っていいほど腑に落ちない。あの頃の歌は本人自らツアーでも歌い続けているし、誰がなんと言おうと素晴らしいものは色褪せないし、25、6のオザケンにだって嘘偽りはなかったはずだ。

じゃあ「間違い」ってなんなのよ。

また振り出しにもどってサイコロを振る。ダイスを転がす。


何度聴けども、あの駆け上がるフレーズはあまりに軽やかで、その度に私の手のひらをするりと抜けていくようだった。

分かりそうで分からない。もどかしい。テストだったら△をもらえそうな解答はいくつか思いつくけれど、たぶん合格点には届かない。そんな感じだった。


そして固唾を飲んで見たLove musicライナーノーツ。前情報によれば最後に流動体についてを歌うということだから、きっとそこに辿り着くまでに小沢健二の言葉の中から何かしらのヒントが得られるはずだと期待していた。一語一句を噛み締めながら声を拾う。

確かにどの質問にも力のある答えが返ってきて、芯の通った信念をひしひしと感じた。

小沢健二ってアルデンテだなぁ、、)とかなんとか思いながら私は速記者のようにその言葉たちを心の片隅にメモし続けた。


そんな中、この番組には質疑応答とは別に場面転換的なちょっとしたシーンがいくつかあった。たかが数秒のシーンだ。

番組も終盤に差し掛かったところで、パークハイアットの窓から夜の街を見渡し、小沢健二はこう言った。

「唯一、スカイツリーがあるのが違います。あとは全部おんなじだと思います。」

そして少し笑った。

その表情は満足気で、感慨深げで、あの時の顔だけは20年前と同じだった。

それを見て「あぁ。」とようやく私の中で全ての辻褄が合った。心の中のペンを置いた。


おそらく、小沢健二は王子様時代を否定したいわけではなく、当時生み出したものを否定したいわけでもなく。【非現実】との付き合い方について「間違い」を感じたのではないか。

あの高級ホテルに逃げ込んでいた日々は目まぐるしくもありながら、一方で心身の疲れも気にならないほどある意味充実していたのだと思う。ディズニーランドで疲れも知らずに遊びまくるのと同じように。それは言わずもがな非現実だ。

そんな非現実、つまりファンタジーの世界に身を置けば無敵の主人公になれると思っていたけれど、実はそうではなかった。それが間違いの正体なのだろう。

決して日本や音楽活動自体に嫌気がさして逃亡したのではないことは、当時と変わらぬ景色を見て嬉しそうに笑った顔が全て物語っている。毎日がパレードのようだったあの狂おしい日々こそ彼にとってかけがえのない思い出であることは変わらない。


小沢健二の気付いたこと、それは非現実というのは少し離れたところから見る必要があるという当然といえば当然のことだ。もしも非現実の部屋の中に入り込んでドアを閉めようものなら、その瞬間に非現実空間は現実となり、それは極めて危険なことなのだと。

ファンタジーはファンタジーであり、現実とは重ならない。交わることはあっても重なりはしない。そしてファンタジーというものは地で行くものではなく、その本質を理解し、あえて意識的に楽しむものであると。


分かりやすく言うなら先述したディズニーランドだ。ディズニーランドは夢の国だが、人が作り上げたものだということはある程度の年齢になれば誰でも理解している。

けれど、「ミッキーマウスの中には人なんて入ってないよ。」と言う大人は大勢いる。そして、そういうタイプの人たちを煙たがって「いやいや、ぬいぐるみだし。」と言う人もいる。

果たして前者は現実を見ていないと言えるのか?

私は疑問に思う。現実を理解したうえで、あえてファンタジーを楽しめる人の方が本当の意味で大人だと思うのである。「いやいや、ぬいぐるみだし。」とか言うツッコミは当たり前すぎてなんらセンスのない発言なのだ。

えてして、現実に戻るドアをしっかり開けてファンタジーの世界に入って行く人というのは意識的に子供であろうとし、より多くの物事に感動することが出来る。それは生活、人生において重要な位置を占めるのだ。


そうして本当の感動を分かり合うことを望んだ小沢健二は、閃光のように眩しい非現実空間の中でジタバタともがき、そうこうしているうちに指先に僅かに触れたドアの隙間に体を滑らせると、NYの摩天楼のふもとに着地したのだろう。


「神の手の中にあるのなら その時々にできることは 宇宙の中で良いことを決意するくらい」


地に足をつけ、ちゃんとご飯を作りながら、愛する家族と現実世界を地道に生きていくことを決意した小沢健二は今、神様という人類の創り出した最大のファンタジーをもあえて楽しむことができる。

そんな風に感じた。