Ukiuki Street,#414

小沢健二中心に、好きなものを色々絡めつつ。

雨と傘

Apple Musicの新番組、第一回。

満島ひかりさんとの対談で出た【傘の下のプライベート空間】の話を聴いて、そこに通じる話を思い出した。


うちの旦那さんはよく、「オザケンみたいな意識高い系の人って、なーんか好きになれないんだよなぁ…。」と、言う。

嫌い、とまでは言わないけれど「自分にはちょっと小難しいんだよね。」みたいなニュアンス。 

小難しいと言われれば。確かに。それは否定しない。


しかし言っておかなければならないのは、小沢健二は決して『意識高い系』ではなく『人間力高い系』であるということ。

まず私の思う意識高い系というのは、言い換えれば『見られる意識高い系』である。常に向上心を持ち現状に満足せず、前向きで、ピンチはチャンス、ポジティブisジャスティスみたいな精神を“表面的に”纏っている人々のことだ。彼らの一番核となるのは『人に見られてナンボ』ということである。この種の人々はたぶん、誰にも見られていなかったら何もしない。まるで人からの評価が良い姿勢を保つためのシートベルトであるかのように、

「先輩っていつもオシャレですよね〜!」「社長の前向きな考え方で人生変わりました!」と、誰かに言われなければ、茹ですぎたスパゲッティのようにフニャフニャとへたってしまう。


一方、小沢健二は『人間力高い系』である。

表面的には結構ハチャメチャなのだが、誰かが褒めようが褒めまいが、けなそうがけなすまいが、自ら良い姿勢を保つ方法を知っている。ベルトなしで急上昇したり、または急降下したりできるおかげで、ピンチの時はしっかりピンチになる。

時々吹っ飛ばされて痛い思いをしたりする。それでも貫く。自分を貫く。


そういう見ていてハラハラする人こそが人間味溢れ、人々の共感を呼び、いつしか懐深くにそっと入り込んでゆく。

そして私達はまんまと、それを愛し、心地よく感じてしまうのだ。


透明の傘でズンズン歩いて、『いつ誰に見られても恥ずかしくない自分』を保つことは悪いことではない。

けれどもなぜか私達は、黒い傘の下で、雨音に消え入るようにニンマリ鼻歌を歌いながら人混みを抜けてゆく、そういう人に心動かされてしまう。

不思議なことに。


潔く負けることは勝つことよりも大事

転売問題ってのは立場によっていろんな見方があって、何が正しいかなんて誰も言えないし難しい問題だけど。 
転売どうこう以前に、結局はみんな何かを諦めて何かを手にしてる。 
それだけのことなんですよね。
だから結果平等なんだ、と思えるかどうかはその人次第。
そんなことを感じた伊勢丹初日でした。


あるアーティストがグッズを出す。
欲しい人はたくさんいる。
じゃあ欲しい人が欲しいものを欲しいだけ買えるようにすればいい。
全部、受注生産にすればいい。

でも、アーティストとはそういうものではない。
アーティストはファンのやって欲しいことを実現するために存在しているのではない。
それは楽曲制作でもグッズ販売でも同じ。
「こんな曲じゃなくてもっとこういう曲作って欲しい。」 
「コラボとかいらないから1人で歌って欲しい。」
「あのグッズとこのグッズは人気だから大量生産して欲しい。」 
それをやり始めたらそのアーティストがその人である意味がない。 
ファンの望みを形にするのが仕事なら誰でもよくなってしまう。 
やはり、ファンとアーティストの関係とはそういうものではなくて
アーティストから発信したものを、気にいるか気に入らないか。
それでファンがつくかつかないか、というのがあるべき形だ。 
「こんなグッズを作ってみました。どうでしょう?気に入ってくれたのならよければ買ってくださいね。」 
このやり方はなんにも間違っていない。

「でも作れば売れるんだから作ってくれればいいじゃん!」という声もあるだろう。
 でもよく考えてみて欲しい。
「コレ2000個も準備したけど売れるかな…。いや、僕のファンならきっと気に入ってくれるはず!みんなの好きそうなデザインで作ったしきっと買ってくれる!」
そういう信頼関係のもと成り立っている売り方と、
「どれが欲しいか分かんないから受注生産にしよ。」
みたいな在庫を持たずに損しない売り方。
 どちらがいいかと言われたら私は圧倒的に前者がいい。 
欲しいものが手に入ることも大事だけれど、アーティストとの信頼関係やイベントとしての盛り上がりの方がもっと大事だ。
 別にお店に行かなくても全部何個でも買えると言われたら、それが本当に楽しいだろうか。それで盛り上がれる人はどれだけいるだろうか。
 「あれとこれが買えた!」「頑張って東京まで行ったけど買えなかった!ショック!」
 そういうファンの一喜一憂を見て、アーティストはファンを大切にしようと思うのではないか。
もっと喜んでもらえるものを作ろうと思うのではないか。 

ただものを売ってお金が入ってくればいい、と考えている人はアーティストではない。
アーティストがアーティストたるゆえんは、その世界観にある。
うわ、今回はこんなことやるのか!こんなものつくるのか!
そういった驚きや感動を与えずしてアーティストとは言えない。

そうすると、自然と「売り方」にもこだわりが出てくる。 
毎日ワクワクして欲しいから、少しずつ情報を出す。 
実店舗があればもっと楽しんでもらえるだろうか、と期間限定ショップを出す。 
すると、全ての町にお店を出すことは現実的ではないから、日本の真ん中あたりにお店を作る。
東京。また東京だけか。と、地方のファンは、がっかりする。 
東京でよかった!と首都圏のファンは歓喜する。 
しかし、当然お店には商品を置けるスペースや、お客さんの入るスペースに物理的な限界がある。 
詰めるだけ詰めてもレジは進まないし、ごった返して怪我人が出ても困るので、「売り方」に制限を設ける。 
整理番号を配る。 
なるべく多くの人に行き渡るように点数を制限する。 
それだけやってもらって、文句をつけるのはやはり違う気がする。 
自分が買えなかったという理由で文句をつけるのは、違う気がする。

地方だから買いに行けない。
給料日前だから買えない。 
その日は仕事だから行けない。
子供に手がかかるからデパートなんて行けない。
買えない理由は色々ある。 

けれどその中でそれぞれどうにか買える方法を模索すればいいし、それでも結局買えない人は、買えないのではなくて何かと天秤にかけた結果買わないことを選んだだけだ。
地方在住でも仕事で抜けられなくても、飛行機や新幹線で飛んでいくとか、仮病をつかって仕事を休めば買いに行けるかもしれない。
人に頼んで買ってもらうこともできるかもしれない。
給料日前だからお金がなくても、数日分のお昼ご飯を抜きにするとか、家にあるいらないものを売るとかすれば買えるかもしれない。
そうやって悪あがきしてみて、買える人は買えるし、買わない人は買わない。
飛行機代を捻出するために来月はずっとお昼ご飯なし、それでも自分にとってそのアーティストグッズがひと月分のお昼ご飯より価値があると思うなら買えるし、「そこまでしては、いいかな。」と思う人は買わない。 
それだけの話。 

そして希少価値というのは無くしてはいけないと思う。 
誰かが手にして誰かが手にできない、そんなことは世の中腐る程ある。 
なんでもかんでもみんなに平等に与えるべき、と言っていたら「競争」自体が成立しなくなってしまう。 
徒競走でみんなが一等賞をもらえたら一等賞の価値がないのと同じように、「限定品」というのは全員が手にしたら限定品の価値がない。
毎回どんなイベントでも全グッズもれなく買いたい人は、ただただ汗水垂らして働いて大金持ちになればいいのだから。
 「そんなにまでしては、いいかなぁ。あんまり苦労せずにのんびり暮らしていきたい。」という私も含め大多数の人間は、時々は潔く諦めなければいけないということです。

喉から手が出るほど可愛いグッズ達は諦めて、甘くて硬派なTシャツのためにこの一週間500円くらいで生活した私の戯言でした。

あ、タイトルは私の大好きな海外ドラマ「フルハウス」に出てくるセリフです 笑

ふっくっろおーのこーえがきっこっえっるー

「フクロウの謎解きの答え、お待ちしてます。」
とのことで。
小沢さん本人から待ってると言われれば自動的にこのリアル脱出ゲームに参加しないわけにはいかないのであって。
ふたつ返事で「はい。やります。」って言ってしまうのが健気なショッカー達であって。それはもう催眠術でもかけられてんのかな、ぐらい反射的に即答してしまったわけです。心の中で。

私だけではないと思うけれど、そもそも謎なんかあったっけ?っていうところからスタートするという 笑
でも、せっかく考えるなら、別に小沢さんの真の意図に固執せずに、みんなで色んなパターンを出すのがいいと思いました。
小沢さんの便利窓口と化してるSONGSに投稿して、それをご本人が読むのだとしたら、色んな解答があった方がおもしろいし。
「自信ありげに考察を垂れ流して、あとから全っ然かすりもしてなかったら恥ずかしい!」なぁんてことを思ってる人がいるとしたら、その人は例の、英語話す時ガッチガチの人です。
私は「曲」というのはアーティストの手を離れて育っていくものだと思ってるので、本人の意図した本来の正解は隠し味程度に感じ取ればいいのだと思います。

ということで、私も人の意見に流されずに独自の路線で掘り下げることにしました。
Twitterでざっくり書いた、「we are the worldとかimagineと同じだと思った」っていうのは、つまり、平たくチープに言えばラブ&ピースってことなんだけど。
あんな賢い人が簡単にラブ&ピースとか世界平和とかって言うわけないじゃん、と言われればそれもそうなんですけど。
小沢さんはそこらへんの思想を一周して元に戻ってそう、というのが私の見解なんですね。
人間というのは少し知恵がついてくると、世間的に善とされていることを批判したり、否定したりして、自分が一段上のステージにいることをアピールしたがる生き物だけど、人にどう思われるかを気にせずに理想を語っていいと言われれば、やっぱり平和を望まない人なんていないと思うんですよ。たとえば発展途上国への募金とか、ボランティアとか、そんなの偽善でしかないって言う人もいるけれど、なんだかんだケチつけてやらないより、10円募金するかしないかで言ったら絶対した方がいいに決まってるんですよ。偽善でもなんでも、それが一人の子供の朝ごはんになるなら無意味なんかじゃないし、粗末な粉ミルクなんか与えたって根本的な問題解決にはならないけど、それでもないより“マシ”なんですよ。
フクロウの謎解きなのに流動体の歌詞盛り込んじゃいますけど 笑、「神の手の中にあるのなら その時々にできることは 宇宙の中で良いことを決意するくらい」っていうのは、きっとそういうことでもあると思うんです。
運命なんか自分で決められないし、神の手の中にある私達は嬉しいとか楽しいとかハッピーな瞬間なんて数えるぐらいしかなくて、あとはだいたいどっちがマシか、で動いてる。より良い方を選んで進んでいけば、おのずといい景色が見えてくる。
そういうメッセージを私はフクロウからも感じました。

まっくろの水面を見て「チョコレートのスープみたいだね」と言えるのは『想像力』があるから。『想像力』が映し出す「天を縫い合わす飛行機 その翼の美しさ」。
このフレーズが私の中で完全にimagineと一致しました。
ーimagine all the people living life in peace.
(想像してごらん すべての人が平和に暮らしていることを)

あんまり表立って「平和な世の中目指そうよ!」なんて言っていると寝言は寝て言えって言われるか、頭おかしい奴来た、と思われるか。街頭演説してみたところで透明人間同然のスルーっぷりでイヤフォンの音量上げられちゃう、そんな厳しい世の中だけど。
怪物を恐れずに進んだ先に、いつか分かり合えないモノ同士が力を合わせる日が来ることを祈って。
ベーコンとイチゴジャムが力を合わせて激ウマのブレックファストができちゃう日を祈って(?)

そういう歌なのかな、って私は思いました。
以上で宿題を終わります。

SONGS 二つの電波塔

近頃、万華鏡を手に取り片目をつむって、あの小さな穴の中を覗いたことがあるだろうか。
くるくる回して、口をポカンとあけて、現れては消える幾何学模様にうっとりする。
「ゎぁ~。きれ~ぃ…」とつぶやく。
たぶんほとんどの人は何年もそんなことはしていないと思うけれど。
まるで、まったくその場面と同じように私達の目の前をきらめくビーズで埋め尽くした、そんな『SONGS 小沢健二』の感想を書きたいと思います。

NHK所蔵の過去映像が流された冒頭ナレーション。
子犬みたいに甘ったるい顔をした若かりしオザケンが、時代の最先端で歌う姿は文句なしに可愛かった。
彼を好意的に見ている人ならもれなく全員「うわ、可愛い。」と思ったに違いない。
しかし、彼が父親となり愛情たっぷりに息子の話をしている今。この2017年においても、相変わらず『渋谷』から本当のことを発信し続けている彼の姿を目の当たりにして、小沢健二はいよいよオザケンを超えてきたのだと多くの人が気づき始めたような気がする。
これまでは、「今の小沢健二もいいけど、やっぱ全盛期は超えられないよね。」だったのが、ついに「昔も可愛かったけど、今の小沢健二には敵わないかもね。」と言わせる状況になってきている。嬉しいことに。

顔にも声にもそれなりに年輪が刻まれて、当たり前に出来たことが出来なくなったりもしているけれど、逆に言えば当時出来なかったことが出来るようにもなっている。
たとえば、文化が都市を作るという話。
私達のすぐそばに立っている自動販売機の話から、日本人のもつ文化の話へと移行するのだけど、それが注意深く耳を傾けていないと継ぎ目がわからないほど、彼はいとも自然に本当の話へと私達を導くのだ。
とても丁寧に、道案内をしてくれる。僕はこう思っていて、こういう歌詞を書きました。この言葉を選んだのはこういう意味です。そうやってメッセージの種明かしをしてくれる。
それはかつての彼にはできなかったことだ。彼の言うところの「本当のこと」というのはもちろん90年代からすでに数々の歌にのり、電波にのり、そこら中を飛び交っていたけれど、そのメッセージと自分自身とを一本の線で結ばれると途端に照れてしまってダメだった。誰かが確信に迫ろうものなら「いやぁ。どうなんですかね?」なんて具合に濁して、煙にまいてしまうのが小沢健二だった。
それが今となってはあんなにも自信を持って『僕からのメッセージ』として日本中に届けることができるのだ。あれには思わずぐっときた。

真っ赤な空間で歌うシナモン。
神話の話。
あの短時間の中でもあえてやる意味のあった天使たちのシーン
愛し愛されて生きるのさ。
何年も変わらず繰り返される台詞。
迷いなく、滑らかに繰り返される台詞。
追いつかないブレスに込み上げる想い。
間違える力の話。
流動体について。
間違えることは大事だけれど、間違いに気がつくことはもっと大事。

そんな全ての想いと経験と、彼を取り巻く登場人物たちをもひとまとめに乗せグルグルと回るステージ。
それを上空から映した映像は、まるで小沢健二という鮮やかな景色を見せる万華鏡のようだった。

そのシーンもさることながら、東京の夜景のジオラマが彼の背後にピタッと止まった瞬間の格好良さは忘れられない。
エネルギッシュな光を放つ東京タワーと、洗練された光を纏い静かに佇むスカイツリー
その二つの電波塔が見事に、小沢健二を象徴していた。

「昔は見えなかったその姿を、音楽やことばで、一生懸命綴ろうと思います。」

彼はこれからどんな、超どびっくりな世界を届けてくれるのだろう。
その度に街に溢れる私達のドキドキや、ハラハラや、ゾクゾクや、ザワザワ、なんかで発電できたとしたら、小沢健二の住む東京はとてつもなく明るくなるな。

なんてことを思った、SONGSでした。
本当に素敵な番組をありがとうございました。
第二回、第三回、拡大スペシャルなんかも大いに期待しています。

なにを書いたかはナイショなのさ

フジロックの感想をどうまとめるべきか悩んでいた。
また来年以降にフジに行く可能性もあるから、あの日の全行動を自分のために記録するのもいいと思ったし、まるで通りぬけフープのように読んだ人をホワイトないしピラミッドに瞬間移動させられる、具体的かつ情感たっぷりのレポートが書けたら一番いいなとも思った。
けれども、どうにもまとまらない。
小沢健二本人ですら未だまとめきれていないであろうこの感情を、一体私なんかがどう収拾をつけるのか、と。

それでも絶対に書きたいことはあった。
あの日感じた小沢健二のしなやかさ。のびやかさ。不安のなさ。
かつてあんなに生きづらそうにしていた青年が何をどう経てこんなにも心解き放つ術を知ったのか。
それだけはじっくり書き残したいと思った。

そう思ったとき私はある言葉を思い出した。映画「アメリ」に出てくるこんな台詞。
「アメリは突然 世界と調和がとれたと感じた すべてが完璧 柔らかな日の光 空気の香り 街のざわめき 人生は何とシンプルでやさしいことだろう」

あー、この感じ。窮屈な暮らしに突如訪れた解放感。環境はそれまでと変わらないのに、自分自身の変化によって世界を味方につけてしまうこの感じ。小沢健二も紛れもなくそれだった。
では、何が彼をそうさせたのか。考えるまでもないがそれはもう確実に「家族」であり、それを得るまでの「旅」である。とりわけ子供の存在。長男であるりーりーの存在は大きい。
「それはちょっと」であんなにも家庭というものを遠ざけていたのに、何かの拍子にガバッと飲み込まれてみたら、案外くじらの胃袋の中は大きくて、小舟を浮かべて釣りでもできちゃうなーなんて具合、と言ったらそれはジェペットじいさんの話だけれど。とにかく居心地は悪くなかったのだ。悪くないどころか、見たことのない景色にワクワクしたかもしれない。
いつまでも自分が子どもでいたい、親になんかとてもじゃないけど……。そう思っていたのは単なる思い過ごしだったのだ。子供には大人に見えない景色が見える。つまり、それを共有することで自分も子どもでいられるのだ。子どもの感覚を一番そばで感じられることは意識的に子どもでいつづけるためにとても効果的だ。

そして今となっては小沢健二は家族の話をするのが大好きだ。今回のピラミッドガーデンでも奥さんの口調を真似してみたり、りーりーのおしゃべりを真似してみたり、家族愛が溢れているというかもうお惚気状態だった。
愛し愛されて生きるとき人は不安から解放される。誰にカッコつける必要もなく、仕草や表情も穏やかでのびやかになる。それが今回一番感じたこと。世界と調和がとれた小沢健二は嘘みたいに格好良く、逞しかった。

さて。それでなぜこのフジロックの感想文にぼくらが旅に出る理由の一節からタイトルをつけたのかというと。
ホワイトステージでこの曲を聴いたとき。ジワリと涙が溢れた気がした。実際は雨だか涙だかよく分からなかったけれど。

【そして君は摩天楼で僕にあてハガキを書いた
「こんなに遠く離れていると 愛はまた深まっていくの」と
それで僕は腕をふるって 君にあて返事を書いた
とても素敵な長い手紙さ[なにを書いたかはナイショなのさ]】

私達がしばし小沢健二を失っていた期間。まさしく「遠く離れて余計に愛が深まった」という経験をした。そして彼は私達にとても素敵な長い返事を書いてくれたという。長らくその中身はナイショだったわけで、私たちはもはや返事を待つどころか手紙を出したことすらも忘れかけていた。
が、そこへきて今年のアウトプット。彼の紡ぐ音、映像、言葉を目の当たりにして、今まで彼が蓄えてきたものや学んできたものや失ったものや得たものを知った。
それはそれは長い手紙を読むように、小沢健二の空白の時間を知った。

ホワイトステージを華やかな光が包んだブギーバックの直後、ついにナイショの手紙の封切り宣言を受け、誰もが雨とも涙ともつかない水滴に濡れていた。電子回路の光が幾万の水滴の中で屈折を繰り返し、美しく揺らめく光景。
これって現実だよね?と思わず誰かに確認したくなるほどの夢心地。
ああ、これが並行世界に消えなくて本当によかった、と心から思った。あの夜を忘れない。

しかしまだ私たちが読んでいるのはすごーく序盤の、便箋で言うところの2枚目の始めぐらいなのではないかと思う。
秋にはフクロウの声がきこえ、ハロウィーンがやってくる。これからも[とても素敵な長い手紙]は続くのだ。
まだ物語は始まったばかり。

ありがとうフジロック。マジで。

小沢健二の歌詞の世界

小沢健二の歌詞は現実とリンクしているか。
これは長年ファンの間でも意見が分かれているテーマで非常に面白い。
「昔本人が実際の経験とは関係ないって言ってた」とか「あの時のあの場面を歌ったみたいに話してた」などなど、この件については本人やファンから色んな証言があって未だよく分かっていない。個人的には、どちらも正解だと思っている。というのが今日のお話。

作詞のスタイルというのは本当に十人十色で、自分の身に起きたことをそっくりそのまま曲にする人もいるし、完全に空想のみでストーリーを組み立てる人もいる。または実話を元にしたフィクション、とか。詞先行/メロ先行によっても変わってくるだろう。作詞で使いたい言葉があったとしても、メロディが先にある場合字数が合わなければ他の言い回しを考えなくてはならない、といった具合に。

小沢健二はよく『言葉の人』だと言われるので、詞先行の曲作りをしていそうな感じがするがたぶんそうではなくて、言葉の重要性を知っているがゆえに気楽に作れないというか、メロディにハマれば薄っぺらい言葉でもオッケー、とはならないだろうから何度も何度も、書いては消し書いては消しを繰り返しているのだろうと思う。
「曲なんかは放っといてもいくらでも出来るんですけど。」と何かで本人も言っていたが。同じ“良いモノ”でも、ゼロカロリーで出来るものと、物凄くカロリーを消費して出来上がるものがある。たとえば画家が、本気の油絵を一年かけて完成させて個展をひらいたとしたら。もちろん「うわー、すごい!素晴らしい絵ですね!」と言われるのだけど、画家になれるセンスを持って生まれたような人は喫茶店の紙ナプキンなんかになんとなーく描いた落書きでも上手いのだ。それを100ドルで買う人が現れるかもしれない。
だから、必ずしも気合を入れて生み出したものが人の心を打つのかと言われればそうでもなくて、小沢健二のメロディメイカーとしてのセンスもゼロカロリーの部類である。
そして本当なら、物書きとしてのセンスも。たとえばエッセイとか、それこそドゥワッチャのような、ある程度好き勝手書いていいものだったらセンス垂れ流しでも問題ないのだけれど、歌詞というのは特殊だ。小説家が必ずしも作詞家にはなれないように、言葉を“紡ぐ”ことは少なからず労力を伴うのだ。

小沢ファンなら見たことがある人も多いであろう、彼が心臓部と言っていた分厚いノートの使い方を見ても明らかなように、彼はパズルのように歌詞を組み立てる人だと思う。“小沢広辞苑”のようなあのノートには、日々暮らしている中で目についた素敵な光景だったり、響きの面白い言葉、歌って口が気持ちいい言葉、おそらく意味はないけど洒落た言い回し、などが取り留めもなく書き連ねられていて、その中でピンときた言葉であったりフッと脳みそに飛び込んできたフレーズを軸に、それを使えるようにうまく前後左右を埋めていく。私の想像の域を出ないがそんな作詞方法ではないかと思う。だとすると実に骨の折れる作業だ。ジグソーパズルを完成させるには当然角とか、縁から作るのが定石なのだから、急にポロッと手元に転がってきた角でも縁でもない部分に合わせて絵をあぶり出すことは非効率的であるに決まっている。
しかし、どうだろうか。非効率的な作業だからといってパフォーマンスが落ちるとは限らない。
小沢健二の思うところ私達は「冷静に見れば少々効率の悪い熱機関である僕ら」なのだから。(『犬』のセルフライナーノーツより)
効率の悪い熱機関が、これまた効率の悪い方法で言葉を紡ぐのは必然である気がして来る。

たった一言の、求心力にあまりある小沢健二の言葉はやがて渦巻き銀河のごとく彼の中に散らかったあれやこれをも吸い寄せ「記憶」も「理想」も「虚構」も「現実」もひとまとめのストーリーに仕立ててしまうのだ。

小沢健二の歌詞は現実とリンクしているか。
その問いにハッキリした答えなど私はもはや求めない。
支離滅裂な夢を見ているような彼の詞の世界はリアリティを多分に含み、そして全ての嘘が誠実なのだ。
その味わい深さはそれ以上でも以下でもない。
唯一無二、誰にも似てない小沢健二だけの持ち味がそこにある。

カウボーイ疾走

前回の続き、としても良さそうです。今回の内容は。
といっても前回の記事を読んでくださった方はごく少数だと思うのでここでもう一度私のフリッパーズギターに対するスタンスを説明しておきます。
この前置きがない事にはその先の話も、タイトルのカウボーイ疾走への繋がりも意味が分からないので。

まず大前提として、私は小沢健二のファンです。そしてフリッパーズギターの作品も好きです。が、フリッパーズギターの再結成は望んでいません。当時の作品としての魅力は感じますが、二人の仲が良いかどうかについてはあまり興味がないというのが現状です。今後考えが変わっていく可能性は自分でも分からないので、とりあえず、「無くもない」とだけ言っておきます。
ほとんどの小沢ファンは小山田ファンでもある、という中で私みたいなのは少ない方なのかもしれませんが(タイムラインがコーネリアスの話題で埋まると途端にアウェイ 笑)別にアンチフリッパーズとかアンチ小山田とかそういうわけではないので、そこだけは伝わって欲しいところです。誰が嫌いとかではなく小沢健二が好きだというただそれだけの話です。
では、本題に。


小沢ファン界隈ではよく耳にする話で、「恋しくて」は小山田圭吾のことを歌ってるんじゃないか。という説がある。つまりそれは、『不仲とか言われてるけど、今でもあの二人が恋しく思い合っていたらいいなぁ。』というファンの願望あっての説なわけで。そういった愛情から生まれてくる説というのは私も割と好きだったりするのだけど。
“二人の仲”に対して興味の薄い私にはやっぱりどう首をひねってみても「恋しくて」と小山田圭吾が繋がることはなくて、まるで一人だけマジカルアイが見えずにモヤモヤしているあの感じである。寄り目で絵を近づけては離し「えー?どこに浮かんでくるって?」とかやってるあの感じ。
見えないのはマジカルアイと同じで先入観があるからだろう。
私の思う小沢健二は、まずもってシャイで、なかなか素直にならなくて、やっと素直になっても非常に婉曲的な表現でしか言葉にしない人だと思っているので、例えば誰かへの隠れた想いを歌ったりしても、その相手、つまり本人が見て自分のことを歌っていると分かるような書き方はしないと思うのだ。
きっと本人が見聞きしても分からないような、全く別のことを歌っているように見せかけて実は、、とかそんな遠回しなやり方を面白がりそうなのが小沢健二ではないかと。

そんな中で私が唯一感じた小山田圭吾が練り込まれていそうな曲が、今日のタイトルの「カウボーイ疾走」である。
それこそ「恋しくて」に小山田圭吾を見ている人々にとっては「えー?どこが?」って感じかもしれないが。
この曲のプロトのサタデーナイトフィーバーの歌詞を見ればカウボーイ疾走よりは分かりやすいかもしれない。
その中には「終わらないパーティーの嘲り」という表現が出てくるが、これではけっこうコテコテにフリッパーズを意識している感が出てしまうので苦味が強い。そこでオブラートで何重にも覆いまくって出してきたのがカウボーイ疾走ではないかと思ったのだ。
まず私が最初に引っかかったのがこの歌詞。

『カウボーイはスペードのエースとか言って
草笛がひどく上手い奴だった』

私は初めてこの曲を聴いた時、というか聴く前のタイトルを見た段階でカウボーイ=小沢健二で、これから疾走していく様子を歌っているのかと思っていたが、よくよく聴いてみれば「草笛がひどく上手い奴だった」と誰か別の人間がカウボーイなのである。自分を俯瞰して書いている場合も考えてみたが、最強のカードを表す「スペードのエース」だとか「上手い」という言葉を自分自身に使うのはなんとなく違和感があるのでやはり他の誰かのことのように思える。
「あいつは上手かった」その言葉通り、才能を認めていた相手となると自然と小山田圭吾が浮かんできたのである。
それを踏まえると、このフレーズの意味が見えてくる。

『海から撫でる風に しらけっちまった純情を帰し
本当のことへと動きつづけては 戸惑うだけの人たちを笑う』

前回の記事で「クールな自分を演じていることに興醒めしてしまったのではないか」というようなことを書いたのだが、まさしく「しらけっちまった」のである。キラキラ目を輝かせながらクールな世界に憧れていた小沢健二の純情はもう、今や海風に乗せられ遠い彼方へ飛ばされたのである。そして本当のことへと動きつづけているのは間違いなく彼自身なのだから、それを笑っているのは別の誰かである。たとえば疾走するカウボーイとか。

当時の小沢健二はきっと、体の中にグツグツと煮えたぎる情熱を解き放つ場所へと向けて荒野をひた走っていた。あえて最短距離をまっすぐに突き進んでいた。
誰かがすぐそばを猛スピードで走り抜け、そいつが巻き上げた砂で足元がざらついても関係なかった。
犬は吠えるがキャラバンは進むのだから、本当にもう関係なかったのである。

この曲は深く聴き込むほどに温かみを増す。サタデーナイトフィーバーに関してはかなり露骨で痛々しさが強かったが、カウボーイ疾走は同じような内容でもどことなく温かい。その変化の理由を、小沢健二という人間の愛情の深さを、是非この曲や犬に収録された他の曲からも感じ取ってほしい。出来るだけ多くの人に。

なんだか締めくくり方がよく分からなくなってきたが最後に言いたいのは、いかにもフィクションっぽい世界観の中にさらりと本音を交えてくる小沢健二の作詞テクニックに、これからもみんなで振り回されるのは悪くない。色んな説を語り合って楽しめるのは素晴らしいことです。たぶん。