Ukiuki Street,#414

小沢健二中心に、好きなものを色々絡めつつ。

ふっくっろおーのこーえがきっこっえっるー

「フクロウの謎解きの答え、お待ちしてます。」
とのことで。
小沢さん本人から待ってると言われれば自動的にこのリアル脱出ゲームに参加しないわけにはいかないのであって。
ふたつ返事で「はい。やります。」って言ってしまうのが健気なショッカー達であって。それはもう催眠術でもかけられてんのかな、ぐらい反射的に即答してしまったわけです。心の中で。

私だけではないと思うけれど、そもそも謎なんかあったっけ?っていうところからスタートするという 笑
でも、せっかく考えるなら、別に小沢さんの真の意図に固執せずに、みんなで色んなパターンを出すのがいいと思いました。
小沢さんの便利窓口と化してるSONGSに投稿して、それをご本人が読むのだとしたら、色んな解答があった方がおもしろいし。
「自信ありげに考察を垂れ流して、あとから全っ然かすりもしてなかったら恥ずかしい!」なぁんてことを思ってる人がいるとしたら、その人は例の、英語話す時ガッチガチの人です。
私は「曲」というのはアーティストの手を離れて育っていくものだと思ってるので、本人の意図した本来の正解は隠し味程度に感じ取ればいいのだと思います。

ということで、私も人の意見に流されずに独自の路線で掘り下げることにしました。
Twitterでざっくり書いた、「we are the worldとかimagineと同じだと思った」っていうのは、つまり、平たくチープに言えばラブ&ピースってことなんだけど。
あんな賢い人が簡単にラブ&ピースとか世界平和とかって言うわけないじゃん、と言われればそれもそうなんですけど。
小沢さんはそこらへんの思想を一周して元に戻ってそう、というのが私の見解なんですね。
人間というのは少し知恵がついてくると、世間的に善とされていることを批判したり、否定したりして、自分が一段上のステージにいることをアピールしたがる生き物だけど、人にどう思われるかを気にせずに理想を語っていいと言われれば、やっぱり平和を望まない人なんていないと思うんですよ。たとえば発展途上国への募金とか、ボランティアとか、そんなの偽善でしかないって言う人もいるけれど、なんだかんだケチつけてやらないより、10円募金するかしないかで言ったら絶対した方がいいに決まってるんですよ。偽善でもなんでも、それが一人の子供の朝ごはんになるなら無意味なんかじゃないし、粗末な粉ミルクなんか与えたって根本的な問題解決にはならないけど、それでもないより“マシ”なんですよ。
フクロウの謎解きなのに流動体の歌詞盛り込んじゃいますけど 笑、「神の手の中にあるのなら その時々にできることは 宇宙の中で良いことを決意するくらい」っていうのは、きっとそういうことでもあると思うんです。
運命なんか自分で決められないし、神の手の中にある私達は嬉しいとか楽しいとかハッピーな瞬間なんて数えるぐらいしかなくて、あとはだいたいどっちがマシか、で動いてる。より良い方を選んで進んでいけば、おのずといい景色が見えてくる。
そういうメッセージを私はフクロウからも感じました。

まっくろの水面を見て「チョコレートのスープみたいだね」と言えるのは『想像力』があるから。『想像力』が映し出す「天を縫い合わす飛行機 その翼の美しさ」。
このフレーズが私の中で完全にimagineと一致しました。
ーimagine all the people living life in peace.
(想像してごらん すべての人が平和に暮らしていることを)

あんまり表立って「平和な世の中目指そうよ!」なんて言っていると寝言は寝て言えって言われるか、頭おかしい奴来た、と思われるか。街頭演説してみたところで透明人間同然のスルーっぷりでイヤフォンの音量上げられちゃう、そんな厳しい世の中だけど。
怪物を恐れずに進んだ先に、いつか分かり合えないモノ同士が力を合わせる日が来ることを祈って。
ベーコンとイチゴジャムが力を合わせて激ウマのブレックファストができちゃう日を祈って(?)

そういう歌なのかな、って私は思いました。
以上で宿題を終わります。

SONGS 二つの電波塔

近頃、万華鏡を手に取り片目をつむって、あの小さな穴の中を覗いたことがあるだろうか。
くるくる回して、口をポカンとあけて、現れては消える幾何学模様にうっとりする。
「ゎぁ~。きれ~ぃ…」とつぶやく。
たぶんほとんどの人は何年もそんなことはしていないと思うけれど。
まるで、まったくその場面と同じように私達の目の前をきらめくビーズで埋め尽くした、そんな『SONGS 小沢健二』の感想を書きたいと思います。

NHK所蔵の過去映像が流された冒頭ナレーション。
子犬みたいに甘ったるい顔をした若かりしオザケンが、時代の最先端で歌う姿は文句なしに可愛かった。
彼を好意的に見ている人ならもれなく全員「うわ、可愛い。」と思ったに違いない。
しかし、彼が父親となり愛情たっぷりに息子の話をしている今。この2017年においても、相変わらず『渋谷』から本当のことを発信し続けている彼の姿を目の当たりにして、小沢健二はいよいよオザケンを超えてきたのだと多くの人が気づき始めたような気がする。
これまでは、「今の小沢健二もいいけど、やっぱ全盛期は超えられないよね。」だったのが、ついに「昔も可愛かったけど、今の小沢健二には敵わないかもね。」と言わせる状況になってきている。嬉しいことに。

顔にも声にもそれなりに年輪が刻まれて、当たり前に出来たことが出来なくなったりもしているけれど、逆に言えば当時出来なかったことが出来るようにもなっている。
たとえば、文化が都市を作るという話。
私達のすぐそばに立っている自動販売機の話から、日本人のもつ文化の話へと移行するのだけど、それが注意深く耳を傾けていないと継ぎ目がわからないほど、彼はいとも自然に本当の話へと私達を導くのだ。
とても丁寧に、道案内をしてくれる。僕はこう思っていて、こういう歌詞を書きました。この言葉を選んだのはこういう意味です。そうやってメッセージの種明かしをしてくれる。
それはかつての彼にはできなかったことだ。彼の言うところの「本当のこと」というのはもちろん90年代からすでに数々の歌にのり、電波にのり、そこら中を飛び交っていたけれど、そのメッセージと自分自身とを一本の線で結ばれると途端に照れてしまってダメだった。誰かが確信に迫ろうものなら「いやぁ。どうなんですかね?」なんて具合に濁して、煙にまいてしまうのが小沢健二だった。
それが今となってはあんなにも自信を持って『僕からのメッセージ』として日本中に届けることができるのだ。あれには思わずぐっときた。

真っ赤な空間で歌うシナモン。
神話の話。
あの短時間の中でもあえてやる意味のあった天使たちのシーン
愛し愛されて生きるのさ。
何年も変わらず繰り返される台詞。
迷いなく、滑らかに繰り返される台詞。
追いつかないブレスに込み上げる想い。
間違える力の話。
流動体について。
間違えることは大事だけれど、間違いに気がつくことはもっと大事。

そんな全ての想いと経験と、彼を取り巻く登場人物たちをもひとまとめに乗せグルグルと回るステージ。
それを上空から映した映像は、まるで小沢健二という鮮やかな景色を見せる万華鏡のようだった。

そのシーンもさることながら、東京の夜景のジオラマが彼の背後にピタッと止まった瞬間の格好良さは忘れられない。
エネルギッシュな光を放つ東京タワーと、洗練された光を纏い静かに佇むスカイツリー
その二つの電波塔が見事に、小沢健二を象徴していた。

「昔は見えなかったその姿を、音楽やことばで、一生懸命綴ろうと思います。」

彼はこれからどんな、超どびっくりな世界を届けてくれるのだろう。
その度に街に溢れる私達のドキドキや、ハラハラや、ゾクゾクや、ザワザワ、なんかで発電できたとしたら、小沢健二の住む東京はとてつもなく明るくなるな。

なんてことを思った、SONGSでした。
本当に素敵な番組をありがとうございました。
第二回、第三回、拡大スペシャルなんかも大いに期待しています。

なにを書いたかはナイショなのさ

フジロックの感想をどうまとめるべきか悩んでいた。
また来年以降にフジに行く可能性もあるから、あの日の全行動を自分のために記録するのもいいと思ったし、まるで通りぬけフープのように読んだ人をホワイトないしピラミッドに瞬間移動させられる、具体的かつ情感たっぷりのレポートが書けたら一番いいなとも思った。
けれども、どうにもまとまらない。
小沢健二本人ですら未だまとめきれていないであろうこの感情を、一体私なんかがどう収拾をつけるのか、と。

それでも絶対に書きたいことはあった。
あの日感じた小沢健二のしなやかさ。のびやかさ。不安のなさ。
かつてあんなに生きづらそうにしていた青年が何をどう経てこんなにも心解き放つ術を知ったのか。
それだけはじっくり書き残したいと思った。

そう思ったとき私はある言葉を思い出した。映画「アメリ」に出てくるこんな台詞。
「アメリは突然 世界と調和がとれたと感じた すべてが完璧 柔らかな日の光 空気の香り 街のざわめき 人生は何とシンプルでやさしいことだろう」

あー、この感じ。窮屈な暮らしに突如訪れた解放感。環境はそれまでと変わらないのに、自分自身の変化によって世界を味方につけてしまうこの感じ。小沢健二も紛れもなくそれだった。
では、何が彼をそうさせたのか。考えるまでもないがそれはもう確実に「家族」であり、それを得るまでの「旅」である。とりわけ子供の存在。長男であるりーりーの存在は大きい。
「それはちょっと」であんなにも家庭というものを遠ざけていたのに、何かの拍子にガバッと飲み込まれてみたら、案外くじらの胃袋の中は大きくて、小舟を浮かべて釣りでもできちゃうなーなんて具合、と言ったらそれはジェペットじいさんの話だけれど。とにかく居心地は悪くなかったのだ。悪くないどころか、見たことのない景色にワクワクしたかもしれない。
いつまでも自分が子どもでいたい、親になんかとてもじゃないけど……。そう思っていたのは単なる思い過ごしだったのだ。子供には大人に見えない景色が見える。つまり、それを共有することで自分も子どもでいられるのだ。子どもの感覚を一番そばで感じられることは意識的に子どもでいつづけるためにとても効果的だ。

そして今となっては小沢健二は家族の話をするのが大好きだ。今回のピラミッドガーデンでも奥さんの口調を真似してみたり、りーりーのおしゃべりを真似してみたり、家族愛が溢れているというかもうお惚気状態だった。
愛し愛されて生きるとき人は不安から解放される。誰にカッコつける必要もなく、仕草や表情も穏やかでのびやかになる。それが今回一番感じたこと。世界と調和がとれた小沢健二は嘘みたいに格好良く、逞しかった。

さて。それでなぜこのフジロックの感想文にぼくらが旅に出る理由の一節からタイトルをつけたのかというと。
ホワイトステージでこの曲を聴いたとき。ジワリと涙が溢れた気がした。実際は雨だか涙だかよく分からなかったけれど。

【そして君は摩天楼で僕にあてハガキを書いた
「こんなに遠く離れていると 愛はまた深まっていくの」と
それで僕は腕をふるって 君にあて返事を書いた
とても素敵な長い手紙さ[なにを書いたかはナイショなのさ]】

私達がしばし小沢健二を失っていた期間。まさしく「遠く離れて余計に愛が深まった」という経験をした。そして彼は私達にとても素敵な長い返事を書いてくれたという。長らくその中身はナイショだったわけで、私たちはもはや返事を待つどころか手紙を出したことすらも忘れかけていた。
が、そこへきて今年のアウトプット。彼の紡ぐ音、映像、言葉を目の当たりにして、今まで彼が蓄えてきたものや学んできたものや失ったものや得たものを知った。
それはそれは長い手紙を読むように、小沢健二の空白の時間を知った。

ホワイトステージを華やかな光が包んだブギーバックの直後、ついにナイショの手紙の封切り宣言を受け、誰もが雨とも涙ともつかない水滴に濡れていた。電子回路の光が幾万の水滴の中で屈折を繰り返し、美しく揺らめく光景。
これって現実だよね?と思わず誰かに確認したくなるほどの夢心地。
ああ、これが並行世界に消えなくて本当によかった、と心から思った。あの夜を忘れない。

しかしまだ私たちが読んでいるのはすごーく序盤の、便箋で言うところの2枚目の始めぐらいなのではないかと思う。
秋にはフクロウの声がきこえ、ハロウィーンがやってくる。これからも[とても素敵な長い手紙]は続くのだ。
まだ物語は始まったばかり。

ありがとうフジロック。マジで。

小沢健二の歌詞の世界

小沢健二の歌詞は現実とリンクしているか。
これは長年ファンの間でも意見が分かれているテーマで非常に面白い。
「昔本人が実際の経験とは関係ないって言ってた」とか「あの時のあの場面を歌ったみたいに話してた」などなど、この件については本人やファンから色んな証言があって未だよく分かっていない。個人的には、どちらも正解だと思っている。というのが今日のお話。

作詞のスタイルというのは本当に十人十色で、自分の身に起きたことをそっくりそのまま曲にする人もいるし、完全に空想のみでストーリーを組み立てる人もいる。または実話を元にしたフィクション、とか。詞先行/メロ先行によっても変わってくるだろう。作詞で使いたい言葉があったとしても、メロディが先にある場合字数が合わなければ他の言い回しを考えなくてはならない、といった具合に。

小沢健二はよく『言葉の人』だと言われるので、詞先行の曲作りをしていそうな感じがするがたぶんそうではなくて、言葉の重要性を知っているがゆえに気楽に作れないというか、メロディにハマれば薄っぺらい言葉でもオッケー、とはならないだろうから何度も何度も、書いては消し書いては消しを繰り返しているのだろうと思う。
「曲なんかは放っといてもいくらでも出来るんですけど。」と何かで本人も言っていたが。同じ“良いモノ”でも、ゼロカロリーで出来るものと、物凄くカロリーを消費して出来上がるものがある。たとえば画家が、本気の油絵を一年かけて完成させて個展をひらいたとしたら。もちろん「うわー、すごい!素晴らしい絵ですね!」と言われるのだけど、画家になれるセンスを持って生まれたような人は喫茶店の紙ナプキンなんかになんとなーく描いた落書きでも上手いのだ。それを100ドルで買う人が現れるかもしれない。
だから、必ずしも気合を入れて生み出したものが人の心を打つのかと言われればそうでもなくて、小沢健二のメロディメイカーとしてのセンスもゼロカロリーの部類である。
そして本当なら、物書きとしてのセンスも。たとえばエッセイとか、それこそドゥワッチャのような、ある程度好き勝手書いていいものだったらセンス垂れ流しでも問題ないのだけれど、歌詞というのは特殊だ。小説家が必ずしも作詞家にはなれないように、言葉を“紡ぐ”ことは少なからず労力を伴うのだ。

小沢ファンなら見たことがある人も多いであろう、彼が心臓部と言っていた分厚いノートの使い方を見ても明らかなように、彼はパズルのように歌詞を組み立てる人だと思う。“小沢広辞苑”のようなあのノートには、日々暮らしている中で目についた素敵な光景だったり、響きの面白い言葉、歌って口が気持ちいい言葉、おそらく意味はないけど洒落た言い回し、などが取り留めもなく書き連ねられていて、その中でピンときた言葉であったりフッと脳みそに飛び込んできたフレーズを軸に、それを使えるようにうまく前後左右を埋めていく。私の想像の域を出ないがそんな作詞方法ではないかと思う。だとすると実に骨の折れる作業だ。ジグソーパズルを完成させるには当然角とか、縁から作るのが定石なのだから、急にポロッと手元に転がってきた角でも縁でもない部分に合わせて絵をあぶり出すことは非効率的であるに決まっている。
しかし、どうだろうか。非効率的な作業だからといってパフォーマンスが落ちるとは限らない。
小沢健二の思うところ私達は「冷静に見れば少々効率の悪い熱機関である僕ら」なのだから。(『犬』のセルフライナーノーツより)
効率の悪い熱機関が、これまた効率の悪い方法で言葉を紡ぐのは必然である気がして来る。

たった一言の、求心力にあまりある小沢健二の言葉はやがて渦巻き銀河のごとく彼の中に散らかったあれやこれをも吸い寄せ「記憶」も「理想」も「虚構」も「現実」もひとまとめのストーリーに仕立ててしまうのだ。

小沢健二の歌詞は現実とリンクしているか。
その問いにハッキリした答えなど私はもはや求めない。
支離滅裂な夢を見ているような彼の詞の世界はリアリティを多分に含み、そして全ての嘘が誠実なのだ。
その味わい深さはそれ以上でも以下でもない。
唯一無二、誰にも似てない小沢健二だけの持ち味がそこにある。

カウボーイ疾走

前回の続き、としても良さそうです。今回の内容は。
といっても前回の記事を読んでくださった方はごく少数だと思うのでここでもう一度私のフリッパーズギターに対するスタンスを説明しておきます。
この前置きがない事にはその先の話も、タイトルのカウボーイ疾走への繋がりも意味が分からないので。

まず大前提として、私は小沢健二のファンです。そしてフリッパーズギターの作品も好きです。が、フリッパーズギターの再結成は望んでいません。当時の作品としての魅力は感じますが、二人の仲が良いかどうかについてはあまり興味がないというのが現状です。今後考えが変わっていく可能性は自分でも分からないので、とりあえず、「無くもない」とだけ言っておきます。
ほとんどの小沢ファンは小山田ファンでもある、という中で私みたいなのは少ない方なのかもしれませんが(タイムラインがコーネリアスの話題で埋まると途端にアウェイ 笑)別にアンチフリッパーズとかアンチ小山田とかそういうわけではないので、そこだけは伝わって欲しいところです。誰が嫌いとかではなく小沢健二が好きだというただそれだけの話です。
では、本題に。


小沢ファン界隈ではよく耳にする話で、「恋しくて」は小山田圭吾のことを歌ってるんじゃないか。という説がある。つまりそれは、『不仲とか言われてるけど、今でもあの二人が恋しく思い合っていたらいいなぁ。』というファンの願望あっての説なわけで。そういった愛情から生まれてくる説というのは私も割と好きだったりするのだけど。
“二人の仲”に対して興味の薄い私にはやっぱりどう首をひねってみても「恋しくて」と小山田圭吾が繋がることはなくて、まるで一人だけマジカルアイが見えずにモヤモヤしているあの感じである。寄り目で絵を近づけては離し「えー?どこに浮かんでくるって?」とかやってるあの感じ。
見えないのはマジカルアイと同じで先入観があるからだろう。
私の思う小沢健二は、まずもってシャイで、なかなか素直にならなくて、やっと素直になっても非常に婉曲的な表現でしか言葉にしない人だと思っているので、例えば誰かへの隠れた想いを歌ったりしても、その相手、つまり本人が見て自分のことを歌っていると分かるような書き方はしないと思うのだ。
きっと本人が見聞きしても分からないような、全く別のことを歌っているように見せかけて実は、、とかそんな遠回しなやり方を面白がりそうなのが小沢健二ではないかと。

そんな中で私が唯一感じた小山田圭吾が練り込まれていそうな曲が、今日のタイトルの「カウボーイ疾走」である。
それこそ「恋しくて」に小山田圭吾を見ている人々にとっては「えー?どこが?」って感じかもしれないが。
この曲のプロトのサタデーナイトフィーバーの歌詞を見ればカウボーイ疾走よりは分かりやすいかもしれない。
その中には「終わらないパーティーの嘲り」という表現が出てくるが、これではけっこうコテコテにフリッパーズを意識している感が出てしまうので苦味が強い。そこでオブラートで何重にも覆いまくって出してきたのがカウボーイ疾走ではないかと思ったのだ。
まず私が最初に引っかかったのがこの歌詞。

『カウボーイはスペードのエースとか言って
草笛がひどく上手い奴だった』

私は初めてこの曲を聴いた時、というか聴く前のタイトルを見た段階でカウボーイ=小沢健二で、これから疾走していく様子を歌っているのかと思っていたが、よくよく聴いてみれば「草笛がひどく上手い奴だった」と誰か別の人間がカウボーイなのである。自分を俯瞰して書いている場合も考えてみたが、最強のカードを表す「スペードのエース」だとか「上手い」という言葉を自分自身に使うのはなんとなく違和感があるのでやはり他の誰かのことのように思える。
「あいつは上手かった」その言葉通り、才能を認めていた相手となると自然と小山田圭吾が浮かんできたのである。
それを踏まえると、このフレーズの意味が見えてくる。

『海から撫でる風に しらけっちまった純情を帰し
本当のことへと動きつづけては 戸惑うだけの人たちを笑う』

前回の記事で「クールな自分を演じていることに興醒めしてしまったのではないか」というようなことを書いたのだが、まさしく「しらけっちまった」のである。キラキラ目を輝かせながらクールな世界に憧れていた小沢健二の純情はもう、今や海風に乗せられ遠い彼方へ飛ばされたのである。そして本当のことへと動きつづけているのは間違いなく彼自身なのだから、それを笑っているのは別の誰かである。たとえば疾走するカウボーイとか。

当時の小沢健二はきっと、体の中にグツグツと煮えたぎる情熱を解き放つ場所へと向けて荒野をひた走っていた。あえて最短距離をまっすぐに突き進んでいた。
誰かがすぐそばを猛スピードで走り抜け、そいつが巻き上げた砂で足元がざらついても関係なかった。
犬は吠えるがキャラバンは進むのだから、本当にもう関係なかったのである。

この曲は深く聴き込むほどに温かみを増す。サタデーナイトフィーバーに関してはかなり露骨で痛々しさが強かったが、カウボーイ疾走は同じような内容でもどことなく温かい。その変化の理由を、小沢健二という人間の愛情の深さを、是非この曲や犬に収録された他の曲からも感じ取ってほしい。出来るだけ多くの人に。

なんだか締めくくり方がよく分からなくなってきたが最後に言いたいのは、いかにもフィクションっぽい世界観の中にさらりと本音を交えてくる小沢健二の作詞テクニックに、これからもみんなで振り回されるのは悪くない。色んな説を語り合って楽しめるのは素晴らしいことです。たぶん。

フリッパーズギター

Twitter上では、フジロックでのコーネリアス小沢健二の出演時間が被るのでは、という話題で持ちきりなわけで。誰もがどっちを見るか究極の選択に迫られているところなわけで。どうにか分身の術でも身に付けようと山に籠る人もいるかもしれませんね。

そんな状況をフェンスの向こう側に見ている私は、完全に小沢健二一択のファンなので体が裂かれるような思いはしなくて済みそうですが、一方で、多くの人と同じようにフリッパーズギターの世紀の接触に心躍らせる体験ができないというのは少しもったいないことをしたなぁとも思います。
ケーキを食べて、しかも取っておくことはできない。あの言葉が今とても心に染みています。
今日はそんな、ケーキを食べてしまうに至ったお話です。


私は小沢健二でさえギリギリのリアルタイム世代なので、フリッパーズギターに関してはもう完全に後追い、というか実際はそこまで追いもしなかった。
というのも、私が惚れたのは「小沢健二小沢健二として発信していた音楽と思想」、ただそれだけだったからだ。
時には、好きな人を取り巻くモノや人が無条件に輝いて見えることもあるのだけど、小沢健二と組んでいたからという理由だけで小山田圭吾にも同じように興味を持てたかと言うと私の場合はそうではなかった。
もちろん曲やミュージックビデオ自体の、作品としての素晴らしさは今でも感じる。小沢健二の紡ぎ出す言葉に小山田圭吾の甘やかで乾いた歌声がのっかり、二人の起こす化学反応は間違いなく芸術的だった。その作品たちは中毒性をもって日常に溶け込んだし、洗濯物を干しながら恋とマシンガンを口ずさむことにはなんの違和感もなかった。
けれど、私の見方では小沢健二の中のフリッパーズギターというのは、コンセプトを明確に持って始まりそして終わった、突発的なイベントのようなものだと思っている。
あの二人をよく知る人にはそうは見えないのかもしれないけれど、あえて深く追いかけなかった私が見る限り二人は全然違う人種に見える。太陽と月、プールと温泉、山口百恵桜田淳子ぐらい違う。だからこそ凸と凹がうまくハマったのだ。
少々おかしなラインナップで例えてしまったけれど、小山田圭吾が常にクールでドライな性質であるのに対して小沢健二はクールでドライを演じつつ実はめちゃくちゃ熱い男であると言いたかったのだ。
誰しも自分と違う性質のものに憧れることがあるだろう。そしてその世界を味わってみたいとも。隣の芝生はいつだって青く、その輝きに時々引け目を感じたりもする。
なんだか世渡り上手でうまいこと生きてるヤツを、ほんの少し羨ましく思う時期というのはあって「あんな風に気楽に生きるってのもいいよなー」と、試しに乗っかってみたりもする。
小沢健二もまさしくそれのような気がするのだ。
小山田圭吾の器用さにある部分で憧れていたのだと思う。カリスマ性があって、華があって、センスがあって、汗臭い努力とかしなくてもなんとなく賑やかな場所の中心で生きてるような。
そんなクールな世界で自己表現が出来たら最高かもしれない、そう思って小沢健二は精神的な部分で小山田圭吾に寄せていったのだと思う。まるで初めから同じ性質であるかのように、いつしか以心伝心、一心同体と言えるまでに完璧に融け合った。
そしてある時気がついた。ちょっと羨ましいと思っていた“あっち側”にいざ来てみたら「あれ?なんか思ってたのとちげーなぁ。」と興醒めしてしまったのではないだろうか。

想像していた【クールな俺】は、いつでも言いたいことを言ってやりたいことをやって、誰に何を強制されるでもなく自己表現できるはずだった。それが現実はどうだ。
「あれはよく知ってますよ、もちろんこれもね。でも、どれもダメだね。よくないよ、ほんと。」
そう言って、マジョリティを批判することに夢中になっているだけではないか?それが自己表現と言えるのか?自分達だけが世の中の本質を見抜いているかのように、世間を見透かして達観した風に見せていても、結局俺たちに何ができるってんだ?
小沢健二がやりたいのはたぶんそんなことではなかった。
そりゃ確かに、力まず大抵のものは受け流して、世の中を評してクールに生きることはある意味賢いように思えた。けれども小山田圭吾の性質は小山田圭吾の性質であって同じようには生きられない。小沢健二はクールには生きられない性質だったのだ。
最初の例えに戻るならば、小沢健二は太陽だ。人の光を反射して輝くのではなく自分の発する熱で生きていくタイプだ。それを無視してクールを演じるのには限界がある。彼の心の中にほとばしる熱いパトス的な何かを、根幹に流れる生命の熱を、無視することなどできなかった。

「あー、俺って生きるの下手くそ!」

それを認めた時、本当の小沢健二が動き始めたのである。
ソロ初のアルバム【犬】に収録された曲にはどれも、そんな不器用な生き方を選んで歩んでいく決意が見てとれる。
中でも天使たちのシーンは本人が好きな曲としてあげるのも頷けるほど小沢健二が爆発している。俺はこういう事言いたかったんだ、ずっと。その気持ちがビシバシ伝わってくる。
あのシャイな性格をねじ伏せた解放への欲求

だからこそ。

暗闇から伸ばされた彼の手を全力で引くために、きっと私はフリッパーズギターをそこに置いてきたのだ。
小沢健二というケーキを食べて、フリッパーズギターを取っておくことが出来なかったけれど。

私の場合はこれが正解だったのだろうなと、フジロックを前にそう思う。

流動体について

Love musicを観たあとの、この熱い気持ちが冷めぬうちに。と思って書き始めたけれど、いつの間にか3日も経ってしまった。

まぁとにかく、今感じたままの『流動体について』です。


この曲は非常に耳触りのいいポップチューンであるにもかかわらず、ほとんど物議しか醸していない一曲でもある。歌詞カードをひらくなり、もしくは新聞をひらくなり、もうあからさまに目に飛び込んできたあの一節。それはまるで必殺技を叫ぶように会心の一撃を放って私達のみぞおち辺りにバコーーーン‼︎とヒットした。


「もしも 間違いに気がつくことがなかったのなら?」


そりゃあBoseさんでさえ驚いたのは納得で。

間違いって言った?今。と全員が思ったであろうことは確実で。その一言は会心の一撃らしく、お喋りな私達をしばし黙らせそして考えさせた。みなさんも考えたと思います。通勤しながら。湯船に浸かりながら。ひふみよのページをめくりながら。「間違い」ってなんなのか、と。


一見して、フツーに浅ーく考えれば「王子様時代は間違いだった説」が考えられる。でもその解答では全くと言っていいほど腑に落ちない。あの頃の歌は本人自らツアーでも歌い続けているし、誰がなんと言おうと素晴らしいものは色褪せないし、25、6のオザケンにだって嘘偽りはなかったはずだ。

じゃあ「間違い」ってなんなのよ。

また振り出しにもどってサイコロを振る。ダイスを転がす。


何度聴けども、あの駆け上がるフレーズはあまりに軽やかで、その度に私の手のひらをするりと抜けていくようだった。

分かりそうで分からない。もどかしい。テストだったら△をもらえそうな解答はいくつか思いつくけれど、たぶん合格点には届かない。そんな感じだった。


そして固唾を飲んで見たLove musicライナーノーツ。前情報によれば最後に流動体についてを歌うということだから、きっとそこに辿り着くまでに小沢健二の言葉の中から何かしらのヒントが得られるはずだと期待していた。一語一句を噛み締めながら声を拾う。

確かにどの質問にも力のある答えが返ってきて、芯の通った信念をひしひしと感じた。

小沢健二ってアルデンテだなぁ、、)とかなんとか思いながら私は速記者のようにその言葉たちを心の片隅にメモし続けた。


そんな中、この番組には質疑応答とは別に場面転換的なちょっとしたシーンがいくつかあった。たかが数秒のシーンだ。

番組も終盤に差し掛かったところで、パークハイアットの窓から夜の街を見渡し、小沢健二はこう言った。

「唯一、スカイツリーがあるのが違います。あとは全部おんなじだと思います。」

そして少し笑った。

その表情は満足気で、感慨深げで、あの時の顔だけは20年前と同じだった。

それを見て「あぁ。」とようやく私の中で全ての辻褄が合った。心の中のペンを置いた。


おそらく、小沢健二は王子様時代を否定したいわけではなく、当時生み出したものを否定したいわけでもなく。【非現実】との付き合い方について「間違い」を感じたのではないか。

あの高級ホテルに逃げ込んでいた日々は目まぐるしくもありながら、一方で心身の疲れも気にならないほどある意味充実していたのだと思う。ディズニーランドで疲れも知らずに遊びまくるのと同じように。それは言わずもがな非現実だ。

そんな非現実、つまりファンタジーの世界に身を置けば無敵の主人公になれると思っていたけれど、実はそうではなかった。それが間違いの正体なのだろう。

決して日本や音楽活動自体に嫌気がさして逃亡したのではないことは、当時と変わらぬ景色を見て嬉しそうに笑った顔が全て物語っている。毎日がパレードのようだったあの狂おしい日々こそ彼にとってかけがえのない思い出であることは変わらない。


小沢健二の気付いたこと、それは非現実というのは少し離れたところから見る必要があるという当然といえば当然のことだ。もしも非現実の部屋の中に入り込んでドアを閉めようものなら、その瞬間に非現実空間は現実となり、それは極めて危険なことなのだと。

ファンタジーはファンタジーであり、現実とは重ならない。交わることはあっても重なりはしない。そしてファンタジーというものは地で行くものではなく、その本質を理解し、あえて意識的に楽しむものであると。


分かりやすく言うなら先述したディズニーランドだ。ディズニーランドは夢の国だが、人が作り上げたものだということはある程度の年齢になれば誰でも理解している。

けれど、「ミッキーマウスの中には人なんて入ってないよ。」と言う大人は大勢いる。そして、そういうタイプの人たちを煙たがって「いやいや、ぬいぐるみだし。」と言う人もいる。

果たして前者は現実を見ていないと言えるのか?

私は疑問に思う。現実を理解したうえで、あえてファンタジーを楽しめる人の方が本当の意味で大人だと思うのである。「いやいや、ぬいぐるみだし。」とか言うツッコミは当たり前すぎてなんらセンスのない発言なのだ。

えてして、現実に戻るドアをしっかり開けてファンタジーの世界に入って行く人というのは意識的に子供であろうとし、より多くの物事に感動することが出来る。それは生活、人生において重要な位置を占めるのだ。


そうして本当の感動を分かり合うことを望んだ小沢健二は、閃光のように眩しい非現実空間の中でジタバタともがき、そうこうしているうちに指先に僅かに触れたドアの隙間に体を滑らせると、NYの摩天楼のふもとに着地したのだろう。


「神の手の中にあるのなら その時々にできることは 宇宙の中で良いことを決意するくらい」


地に足をつけ、ちゃんとご飯を作りながら、愛する家族と現実世界を地道に生きていくことを決意した小沢健二は今、神様という人類の創り出した最大のファンタジーをもあえて楽しむことができる。

そんな風に感じた。